「ああー」
やってしまった。
どうにも他人事の様な、そんな間の抜けた声が出た。
慣れない料理なんてしようと思ったからだ。
レオは右手に持っていた包丁と赤く染まってしまったりんごをテーブルの上に置いた。そしてレオは「あ」とまた間の抜けた声を出した。
――今、自分のやっていることは料理と言えるのだろうか。
「どうしようか……まあいいか。料理ということにしておこう」
のんびりと立ちあがり、やっと手を洗うことにする。水を当てると傷口が見えてきた。
レオが思ったより、深く切ってしまったらしい。あるいは切れた個所が悪かったのか。血はなかなか止まりそうにない。こういう時、どうすればいいのか……自分の浅い知識で一体何ができるのだろうと考えると、消毒をして包帯を巻くくらいしか出てこない。
どうするかなーと苦笑していると、携帯が鳴った。一人だけ違う着信音にしている相手――カノだ。そんな相手からの着信音は嬉しい。しかも電話。……だが。
レオは手を洗うのを止めて、携帯を取って通話ボタンを押した。
「起きてる?」
最近ではそれが電話での第一声となりつつある。メールではそういうことはない(というより最近は送ってこない)のだが。この第一声を言わせる様な状態にしたのはどう考えてもカノのせいではないので、レオは自分のふがいなさを見せつけられているみたいだから少々へこむ。
「起きてる、起きてる」
「一度でいい。それより今私、あんたの家の近くにいるのよね。ちょうどいいから遊びに行ってもいい?」
「ああ……うん、いいよ」
どうしても、曖昧な返事になってしまうのは仕方がなかった。
「じゃあ」
そう言って、カノは一方的に電話を切った。そこでレオは溜息を吐いた。
(本当に俺って意識されてないんだな)
それもそうだろう。アパートで一人暮らしの男の部屋に、彼女でも何でもないのに一人で入ろうとする女などそういない。例え、幼馴染だとしても。もうどちらも二十歳過ぎだというのに。
それはともかくと、レオは左手を見た。ああ……やっぱりそうくるかとちょっと焦ってきた。手は真っ赤に染まっており、しかしそれでも足りないらしく、床には更に血が零れてしまっている。水で濡れた左手をタオルで拭こうともしなかったのだから自業自得である。
「とりあえずティッシュかな」
レオは乱暴にティッシュの箱に手を入れて、何十枚かを取り出し左手に覆わせた。
「うわー、どうしようこれ」
止まりそうにない。傷口を胸より高くは上げてみたが、今さらだ。……やらないよりはマシだが。
そんなことをしているとインターホンが鳴った。
「来たわよー」
(もう来たのか)
カノが近くにいると言ったら、それは本当に近くにいるということなのだ。忘れていた。のんびりと止血の心配をしている場合ではなかった。
カノは返事も待たずに部屋の中に入ってきた。鍵をかけていなかったからだ。
カノはビニール袋を携えていた。今日もかわいいなとか考えていると、カノの目が大きく見開かれた。
「どうしたのよ、それ!」
「ちょっと切った」
「馬鹿! いつよ、馬鹿」
「電話がかかってくる少し前」
「ふざけんじゃないわよ、馬鹿。なんか縛れるもの……長いタオルとかないの? 馬鹿」
「洗面所の方にあったと思う。後、馬鹿馬鹿連呼しないでカノ」
「何言ってるのよ。馬鹿に馬鹿って言って何が悪いのよ、馬鹿。包帯とかはないの?」
「ひどいなぁ……。包帯とか普段使わないからないよ」
「本当馬鹿。それなら電話した時に言ってよ。買ってきたのに」
「でも、悪いよ」
「そういうのは止血の仕方を知ってから言え」
(ああ、ばれていたのか)
カノはタオルを取ってきて、腕を縛った。ぎゅう、とタオルがねじられる音がした。
「痛い」
「うっさい」
ぎゅぅうう。
「本当にいたいんですけど」
「男ならこれくらい我慢して」
ぎゅぅううう。
(痛い痛い、やばいって)
顔にはできるだけ出さないようにレオはしているが、自信はない。カノはそこでようやく手を離した。そうすると、当然カノとの距離も遠くなってしまうからちょっと勿体なかったと思ったら駄目だろうか。言ったらまず、怒るんだろうな。言葉の意味は半分も理解できていないのに。レオはカノに見せないようにそっと苦笑した。
「じゃあ、そこで安静にしてて。包帯とか消毒液とかその他諸々買ってくるから。……いい?その椅子から立ったら怒るから。床に零れてる血とか拭こうとしないでね。分かった?」
何度も釘を刺すカノが可愛くて、そしてそんなカノが自分のために動いてくれることが嬉しくてつい頬が緩んでしまう。それをカノは、からかわれているのだと思ってしまっているという誤解が未だに残っている。
「うん、分かった。待ってる」
レオは右手でひらひらと手を振ってカノを見送った。と言っても、玄関まで行くことは許されなかったが。
「おかえり」
息を切らせているカノは少し艶っぽかった。触れたくなるような衝動を抑えてレオは話しかけた。
「そんなに急がなくてもよかったのに」
「別に、急いで……ないっ」
顔を赤くするカノから目を逸らし、彼女のビニール袋へ向けた。
馬鹿には包帯、テープ、ガーゼ……と見てわかるのはそれくらいだ。白いものばかりだから中を探ってみなければ分からない。
「こんなに必要ないと思うけど」
「あんたこういうの、持ってないんでしょ。だから、多めに買っておいた」
「そっか、じゃあ後で払うよ」
「いい、いらない。私が勝手に買っただけだから」
「じゃあせめて半分は払わせて」
「……分かった」
それでもカノは不満そうだ。いつものことだが。
何とか割り勘にすることができ、レオはカノに聞えないように溜息を吐いた。
(これなら、先に金を渡しておくべきだった)
今更遅い。
カノはバリバリと包みを破いた。血は大分止まってきていたので、ガーゼを当てるだけで終わった。
手を動かせば、もちろん痛い。それでも好きな人に手当をしてもらえたのなら、そんな痛みなど軽いものだった。
「ありがとう、カノ」
「別に。あれだけ血を流してる人に何もしないなんてできる訳ないでしょ」
「うん、そうだね……手、血が付いてるよ、カノ」
怪我をしていない方の手で、レオはカノの手首をつかんだ。
「ああ本当だ、洗わないと」
「うん、そうだね」
何の動揺もしてないカノの指先を自分の顔に近づけて、ぺろり。
「……へっ?」
舌を指に付けたままカノを見ると、顔を更に赤らめていた。どうやら混乱しているらしいので、このまま怒られるまでやってしまおうと舌を動かす。
「ば、馬鹿ぁああああ!」
「いったぁ」
バチンと頭上から平手打ち。ひりひりする頭を両手で押さえながらカノを見ると、口をパクパクさせていた。
「綺麗にしてあげようかと思って……」
と、声をかけるとカノはむっとした顔をした。
「あんたね、からかうのもいい加減にしてよ。もうこんな恥ずかしいことしないでよ、馬鹿」
レオは今日一日で一番の笑顔で返事をした。
「はーい」
カノはぶつぶつと文句を言っているが自分でも何を言っているかは分からないらしく、手を洗うことも忘れている。
そんなカノを見て、レオは笑いそうになるのを堪えた。
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